Masuk冬真の名前で届いた文章を読んだ朔也は、私が握り返していた手を振りほどくことも、安心させるために強く握り直すこともせず、そのままの力で支えながら、携帯電話の画面を椎名と真奈へ見える位置まで持ち上げた。
「この写真は区役所の中で撮られているから、外で待っている記者が望遠レンズで撮ったものではないし、俺たちの契約内容だけでなく、株式の正確な割合まで知っている。警察へ連絡したあと、澪は真奈さんと別の車で移動し、今夜は俺と離れた場所へ泊まったほうがいい」
「犯人から一人にするなと言われたから一緒にいる、という判断もしたくありませんけれど、脅迫が届いた途端に私を別の場所へ移し、あなた一人が囮になるというのも、契約で禁止したばかりの行動です。危険を説明したうえで選ばせると約束したのに、結婚から一時間もしないうちに、もう忘れたんですか」
「忘れてはいないが、相手は次の棺を用意したと具体的に言っているし、俺が殺される可能性と、君まで巻き込まれる可能性を同じ重さ
第65話 娘の心臓を救う細胞は、夫の同意で地下へ運ばれていました C由来の心筋前駆細胞が、灯のいる病棟に近い地下培養室へ運び込まれていたと分かった時点で、芙美は裁判所へ追加の保全命令を申し立て、真奈は施設内の通信記録を外部から保存し始めた。 しかし、地下培養室の管理権限は病院ではなく、仮登記されたアウローラ患者継続財団へ移されており、病院の警備員には、扉を開ける権限がなかった。財団の正式な理事はまだ存在せず、代表理事欄へ登録されたAUR‐011は、人として命令を受けることも、管理責任を負うこともできない。誰のものでもないように見える部屋ほど、実際には、誰も止められない仕組みに守られていた。「強制的に開けられないのですか」「裁判所の保全命令は、C本体と関連細胞の移動、使用、廃棄を禁止していますが、施錠された区画への立入りまで当然に認めるものではありません。病院側が、内部で医療行為を行っている可能性があると判断すれば安全確認のため入れますが、現在、培養室は病院の診療区域から外されています」「灯へ使うため運び込んだ細胞なのに、診療区域ではないというのですか」「実際に投与すれば診療行為になりますが、投与前の研究用試料として置かれている間は、財団の研究区画だという整理です。都合に応じて研究と治療を切り替え、責任だけを境界の外へ置いています」 芙美の説明を聞きながら、私は灯のいる上階へ意識を向けた。娘の心拍は安定していると知らされていても、床の下に、本人の治療へ使う目的で培養された細胞があると分かれば、何かが既に始められているように感じられた。「篠崎先生は、その試料があることを知っていたのですか」「現在確認しています。ただ、診療記録には、C由来細胞を投与した記録も、治療候補として検討した記録もありません」 芙美が答えた直後、篠崎医師から連絡が入り、私たちは病院内の会議室へ移った。私は長く歩ける状態ではなく、朔也に車椅子を押されることになったが、彼の手に任せていると、自分で進む方向を決められない感覚が強くなったため、曲がり角のたびに、右へ、次は左へと必要のない指示をした。「道は分かっている」と朔也が言
第64話 凍結胚Cを産まないと約束すれば、私たちは全員助かります 七海が和解案へ署名すれば、Cは廃棄されず、灯の十五パーセントは減らず、私と朔也への告発も取り下げられる。患者財団をめぐる資産移転についても、旧取締役側は一部を適法な手続でやり直すことへ応じると書かれており、争いに関わる者の大半が、今より安全な場所へ移れる条件だった。 その安全を買う代金として求められているのは、七海がCを産まないと約束することだけだった。「期限は書かれていませんね」 七海は、和解案を最初から読み直したあと、芙美へ尋ねた。声は落ち着いていたが、紙を押さえる親指の爪だけが、白くなるほど強く机へ触れていた。「回答期限は明記されていません。ただ、旧取締役側からの連絡では、財団の暫定理事を選ぶ手続が始まる前に回答してほしいとのことです。時間を与えると書かず、急ぐ理由だけを伝えるやり方ですから、こちらから期限を確認する必要はありません」「返事をしないまま置いておけば、灯ちゃんの株も、澪さんたちへの告発も不安定なままなのですね」「そうなります。ただし、その不安定さを作ったのは七海さんではありません。和解へ応じないことによって、あなたが澪さんたちを危険へさらすわけではないので、そこは分けて考えてください」「分けて考えられるなら、私はもっと楽です。署名すれば助かる人の顔が見えているのに、それでも自分の選択だけを優先するのは、何も知らないふりをするより難しいと思います」 七海が私を見ないまま話したため、私は、自分から安心させる言葉を差し出すべきか迷った。署名しなくてよいと言えば、私が告発を恐れていないふりをすることになる。署名しても責めないと言えば、Cを産まない選択へ誘導する。どちらも彼女のために聞こえながら、自分の望みを隠す言い方だった。「私は、署名してもらえれば安心します」と朔也が先に言った。 芙美が止める前に、七海は顔を上げ、朔也を真正面から見た。責める言葉を探すというより、どこまで本気で言っているのか確かめる目だった。「私にCを産んでほしくないのですか」「そう言い切るつもりはない。ただ、
第63話 娘の財産を守る弁護士は、凍結胚Cの相続を認めませんでした 緊急審理が始まる一時間前、岸本沙耶は私の病室を訪れ、灯の十五パーセントをCと分ける条項について、正式に異議を申し立てると告げた。 彼女は、その話を電話や書面で済ませず、わざわざ私の前へ来た。私が出産後の痛みで長く座っていられないことを知っているため、説明の途中で休めるよう、ベッド脇の机には資料を広げず、要点だけを記した紙を一枚置いた。その気遣いが、これから口にする内容を受け入れやすくするための準備にも見え、私は礼を言いたくなる気持ちと、最初から警戒しておきたい気持ちの両方を持った。「期限停止の申立てには賛成します。七海さんへ三十日以内の判断を迫り、何も届けなければCを研究資産へ戻す条項は、生殖に関する自己決定へ過度な圧力を与えるものですから、執行を止める必要があります」「それなら、意見は同じではないのですか」「期限を止めることと、Cが出生した場合に灯さんの持ち分を半減させることは、別の問題です。私は灯さんの代理人として、十五パーセントの受益権が既に確定していると主張し、Cが将来出生しても、その権利を減らせないよう求めます」 言葉の意味は分かったものの、感情が追いつくまでには時間がかかった。岸本はCを研究材料へ戻してよいとは言っておらず、七海へ妊娠を諦めさせようとしているわけでもない。それでも、彼女の主張が認められれば、Cは出生しても信託の受益者になれず、冬真の娘として用意された財産を受け取れない。「Cの期限を守りながら、財産は与えないのですか」「灯さんの財産を奪わず、Cの保存や将来の出生可能性を守る方法を求めます。Cのために必要な費用は、冬真さんの別の遺産や、研究法人へ返還させる資金から出すべきであり、灯さんへ帰属した十五パーセントを減らす理由にはなりません」「同じ父親の娘なのに、灯だけが受け取るのは不公平ではありませんか」「そう感じることと、法的に灯さんの財産を減らせるかは一致しません。冬真さんは、二人の娘へ同じ財産を与えるつもりだったのではなく、一人しか出生しなければ十五パーセント、二人なら半分ずつという条件を付けました。しかし、そ
第62話 娘の妹が生まれれば、十五パーセントの株は半分になります 冬真の二人の娘が、互いを相続人として守るように作られていたという言葉を聞いても、私はすぐには、それを美しい仕組みだと思えなかった。二人のうち一人は保育器の中で心臓を機械に助けられ、もう一人は凍結槽の中で、本人の意思も知らないまま出生する可能性を法律と研究者に数えられている。そこへ姉妹という温かな呼び名をかぶせれば、冬真がしたことまで、死後に娘たちを思いやった父親の善意へ変わってしまいそうだった。「確認させてください。Cが生まれた場合、灯が受け取った十五パーセントとは別に、新たな十五パーセントが与えられるのではなく、今ある十五パーセントを二人で分けるのですね」 私が尋ねると、芙美は、冬真の署名が入った信託付属書を机へ置き、指先で該当箇所を示した。病室の窓から入る午後の光は紙面の白さばかりを目立たせ、そこへ並んだ文言が、娘たちの人生ではなく、土地の持ち分か預金の分配を定めているように見えた。「はい。Aだけが出生した状態では、十五パーセントの受益権はAへ帰属しますが、Cも人として出生し、受益者資格を得た場合は、それぞれ七・五パーセントになります。片方が死亡したときは、生存する姉妹へ移るため、財団にも会社にも戻りません。ただし、二人が成人したあと、本人の判断で処分することまでは禁じていません」「つまり、私がCを産めば、澪さんの娘が持つ株は半分になるということですね」 七海の声には責める調子がなく、それだけに、私は返事を慎重に選ぼうとして失敗した。気にしないと言えば嘘になり、娘の権利を守りたいと答えれば、七海がCを産むことを迷惑だと思っているように聞こえる。どちらの言葉も完全な間違いではなく、正しくない言い方ほど本音へ近かった。「そうなりますし、私は、そのことを今知って、灯の分を減らしたくないと思いました。七海さんにCを諦めてほしいとまでは考えていないつもりですが、会社の議決権も、この子が将来持てる財産も半分になると聞いて、何も惜しくないとは思えません」 言い終えると、朔也がこちらを見たものの、庇うような言葉は口にしなかった。私が母親として口にしにくい欲を認めた直後、彼だけが立派
第61話 亡夫は、私と七海に自分の子どもを一人ずつ産ませるつもりでした 冬真が残した映像記録は、私と七海の生体認証を同時に確認しなければ開かないよう設定されていたが、その条件へ従うこと自体が、私たちを彼の決めた「二人の母親」として認める行為に思えたため、私はすぐには再生へ同意できなかった。 集中治療室の空調は身体へ障るほど冷たくないはずなのに、輸血を受けたあとの皮膚には、薄い毛布を重ねても消えない寒さが残っていた。腹部の傷は呼吸のたびに引きつれ、少し身じろぎするだけで身体の奥から鈍い痛みが広がったが、私は鎮痛薬を追加して眠くなることを嫌い、七海とつながった画面を見続けた。「この映像を開けば、冬真が私たちを二人の母親と呼んだ前提へ乗ることになります。七海さんは、それでも見たいのですか」『見たいです。ただ、見たから母親になるとも、冬真さんの説明を受け入れるとも約束しません。私は、Cについて知らないまま八年を過ごしました。今度も誰かが決めた呼び名を嫌うためだけに、手掛かりまで拒むことはしたくありません』「冬真の言葉を聞けば、Cを産まなければならないと思うかもしれません。死んだ人の頼みは、生きている人の命令より断りにくいですから」『澪さんも、冬真さんの映像を見れば、娘さんへ、亡くなった父親の意思を守らなければならないと思うかもしれません。それなら、どちらか一人が見るより、二人とも聞いて、その場で互いに疑ったほうがましではありませんか』「互いに疑うことを、協力の条件として出す人は珍しいですね」『信じ合いましょうと言われるより、澪さんも安心するでしょう』「否定できないところが腹立たしいです」 七海は、画面の向こうでわずかに口元を緩めた。親しみを感じたわけではない。ただ、私たちは相手へ好かれるための言葉を選ぶ段階を、最初から飛ばしてしまったらしい。 映像を開く前に、芙美は、再生への同意が、第二母登録、Cの移植、娘の監護権に関する同意として転用されないよう、裁判所の立会い記録へ条件を残した。真奈も、映像ファ
第60話 娘を奪おうとした「二人目の母親」も、子どもを人質にされていました 早瀬七海の名で提出された申立書を見たとき、最初に湧いたのは、同意を盗まれた彼女への同情ではなく、娘を奪われるかもしれないという警戒だった。私も朔也も、本人の知らないところで親として登録されたのだから、七海も同じ被害者だと頭では理解できたが、「第二母」という文字を目にした途端、その理解は薄い紙のように破れ、娘のそばへ近づこうとする人間を追い払いたい気持ちが前へ出た。「申立てを取り下げてください。七海さんが書いたものではないとしても、あなたの名義と署名で提出された以上、そのままにはできません」 院内回線の画面に映る七海は、乱れた髪を手櫛で整えようとして途中で諦め、椅子へ深く座り直した。眠りから急に起こされた人の顔には見えたが、申立書の内容を知った驚きだけではなく、これまで見ないふりをしてきた感情まで暴かれた居心地の悪さが滲んでいた。『取り下げます。ただ、私が取り下げると答えれば、澪さんは、私が本当は娘さんを欲しがっていたことまで忘れてくれますか』「忘れられませんし、忘れる必要もないと思います。あなたがどう感じていても、私の娘へ監護権を主張しなければよいのです」『澪さんの娘だということは分かっています。でも、Cと分けられる前には同じ細胞だった子が生まれたと聞いて、何も感じない人間にはなれません。会ってみたいと思いましたし、顔を見れば、自分が失ったと思っている子どもの続きを見つけられるのではないかとも考えました』「それを私へ言えば、正直な人として信じてもらえると思っているのですか」『思っていません。むしろ、言わないほうが澪さんから嫌われずに済むと分かっています。ただ、私は、AURに勝手な意思を作られたと訴えながら、自分に都合の悪い本音だけ隠し、申立書に書かれたことは全部嘘ですと言うのも違う気がします』 七海の言い方は、私へ許しを求めているようでいて、許されやすい被害者を演じることだけは拒んでいた。その頑固さに苛立ちながら、私は、もし彼女が泣いて謝り、娘へ興味などないと言い







